エコニィとラニッツが交際を始め、数カ月が経過していた。
ラニッツが一人暮らしをしていた家にエコニィが転がり込むかたちで、同棲をしている。
二人の仲睦まじい関係は村でも評判であり、結婚も間近ではと囁かれていた。
「よぉ! エコニィちゃん、今日も可愛いね。良かったらコレ、持ってくかい?」
「アラおじさんありがとう! すっごく助かるわ!」
「ありがとうございますダイコムさん。お代は後で届けますので」
「なぁに言ってんだよラニッツ。
「それはいけません。いくら村の仲間とは言えこういうことはキッチリ・・・」
「まぁまぁ良いじゃないの。おじさん、ありがと! また今度お礼するわね!」
エコニィは村に来たばかりの頃と比べてずいぶん明るくなったと、村人は口々に言った。
恋をすると女は変わるなどと知った風なことを冗談半分で言う輩も居たが、あながち間違っていないようにも思われた。
「エコニィは本当に、村の人気者ですね」
ラニッツは苦笑いしながら、貰った野菜を抱えて歩くエコニィに言う。
「そうかな? それだけ馴染めてきてるなら、嬉しいことだわ」
葉の部分からひょっこりと出てきた虫をそっとつまみ、足元の草に放してやりつつ、エコニィは屈託の無い笑顔でラニッツを見上げる。
「私、本当に毎日幸せよ。ありがとう、ラニッツ」
少し前の彼なら動揺と赤面と冷や汗の三重奏に身悶えていたところだが、最近ではどうやら耐性がついてきたらしい。
まるで天使のような笑顔だ、と内心で惚れ惚れしつつ、しかし冷静に返すことができるようになっていた。
「私もですよ、エコニィ。愛しています」
こんな幸せな日々が永遠に続くと、思っていた。
ひとかけらの不安も無い、温かで柔らかな幸福の日常はしかし、不意に、崩れ去った。
灯りの点いていない薄暗い部屋。
ポニーテールのシルエットで、そこに居るのがエコニィだと判る。
机に両肘をついた状態で椅子に座っている。
もう、どれくらいこうしているだろうか?
胸が痛む。
ギリギリと締め付けられるような苦しさ。
自業自得。
なぜあんなことを言ってしまったのだろう。
「私は・・・大馬鹿だ・・・うっ・・・ラニッツ・・・ぅ・・・うぅぅ・・・」
溢れ出る嗚咽を必死に押さえつつ、それでも零れ落ちる涙は止められない。
こんこんと湧き出る大粒の涙は頬を伝い流れ落ち、机の上の書き置きを濡らす。
インクが滲んでしまったその手紙には、こう書かれてある。
『今日も遅くなります。先に寝ていてください。ラニッツ』
朝起きると、すでに彼の姿は無い。
ここ最近はいつもこんな調子だ。
彼は、他の女をとっかえひっかえ遊んでいるらしかった。
「うっ・・・ラニッ・・・ツ・・・ひっ・・・ひっく・・・」
後悔と自責の念に締め付けられたエコニィの慟哭だけが、部屋に響いていた。
タミューサ村に企業というものは未だ存在せず、村人は自給自足と物々交換で暮らしている。
村の人口の大半が農業を営んでおり、朝日とともに起き、日没とともに家に帰るような生活をしていた。
しかし手に職のあるもの、例えば鍛冶屋や薬師などは、特に毎日必ず仕事があるわけでも無かった。
必要なときに必要な働きをするだけ。
それは村の実働を担う、村長を始めとした幹部メンバーにも言えることだった。
つまりラニッツには、毎日朝早くに出掛ける用事など、無いはずなのだ。
最日は特に気にも留めていなかったエコニィ。
しかし翌日も、その翌日も、目が覚めると書き置きだけが机に置いてあった。
また、帰ってくる時刻も遅く、少し心配になったエコニィは、疲労困憊で帰宅したラニッツに尋ねてみた。
「おかえり。ねぇ最近どうしたの?」
「な、なんのことです?」
「朝も早いし、帰りも遅いじゃない。すごく疲れてるみたいだし」
「ああ、ちょっと、任務で・・・」
「ふ~ん。ま、あんまり無理しないでね?」
「ありがとうございます」
ラニッツは明らかに隠し事をしていた。
エコニィだから判るとかそういうものでは無く、もともと嘘が下手なのだ。
だが敢えて追及はしなかった。
言いたくないのなら、無理に言わなくても良いと思った。
しかし、次の日。
村の女性たちが集う井戸端会議の内容を、偶然にも耳にしてしまった。
「あんた、ラニッツさんとこ、行った?」
「いやねぇもう、私みたいなオバサンじゃダメよ」
「あら、そうなの?」
「なんでも、若い子ばっかり呼んでるみたいよ?」
「まぁそりゃそうよね。だってエコニィちゃんが・・・」
「あのっ!」
「わあっ!エ、エコニィちゃん!?」
「あの、今の話・・・」
「えっ? 何のことだい? さぁ仕事仕事! ああ忙しい忙しい!」
「あ、あの・・・」
挙動不審な奥様方は一瞬で解散してしまった。
どういうことなのだろうか・・・。
ラニッツが、若い子を呼んでいる?
どこに? 何のために?
エコニィは村長邸に走った。
エウス村長ならばラニッツの任務について知っているはずである。
しかし。
「つまりな、もしエコニィにラニッツのことを聞かれても、知らぬ存ぜぬで通すんじゃ。わかったな?」
「うん。でも何でそんなことするの?」
「男にゃ見栄ってモンがあるじゃろ。それに、エコニィから言われたらしいぞ? 『ナンバーワン』とか何とか・・・ラニッツのやつそれを気にして・・・ハッ! エ、エコニィ!?」
ダクタスとオジュサの会話を聞いてしまった。
その内容はまたもや自分たちのことだった。
「あの、ダクタスさん、さっきの話・・・」
「んんん!? 何のことじゃ!? ワシ最近物忘れがひどくてなぁ・・・のう、オジュサ?」
「えっ? ああ、うん。もう、しっかりしてよねダクタス~」
こうしてあからさまな隠蔽工作に遭遇したエコニィ。
しかし情報の一端を聞くことができた。
自分が何かラニッツに言ったらしい。
エコニィは彼との会話を必死で手繰った。
そして、思い当たるものが、あの言葉だった。
『きっと私は、ラニッツにとってのオンリーワンだと思うよ? それは分かる。でも、ナンバーワンじゃ無いんだよね。あんたさ、ちょっとくらい、他の女の子と遊んだって良いんじゃない?』
自分で発した言葉であることは間違いない。
だがそれは『昔の価値観』から出た言葉だった。
今まで男女交際をしたことの無いラニッツにとって、エコニィは唯一の存在である。
しかし、比較対象が存在しないことには、決してナンバーワンにはなれないのだ。
そしてエコニィには少なからず、ラニッツの中で一番になりたいという欲求があった。
ふとした瞬間、それを思わず言葉にしてしまったのだ。
吐いた唾は飲めない。
自分で自分の言葉に違和感を覚えつつ、しかし『まさかラニッツが今の言葉を本気にするとは思えない』という甘えもあり、特に訂正することも無かった。
それが、こんな形で返ってくるとは。
彼と二人で過ごすうちに、いつしか彼の価値観が自分に移ったのだと思う。
彼は自分の『唯一』であるし、自分もそうで在りたいと思う。
ならば『逆』もあるかもしれない。
自分の価値観が、彼に移ることだって考えられる。
彼は今、私を『一番』だと認定するために手当たり次第に女性と交遊している。
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「嫌だ・・・嫌だよぉ・・・ふぐ・・・うっ・・・うぅっ・・・」
彼が自分なんかより遥かに相性の良い相手を見つけてしまったらどうしよう。
考えれば考えるほど自分の欠点ばかりが頭に浮かび、ラニッツが自分を好きでいてくれる要素が何ひとつ思い当たらない。
彼の経験の無さの上に胡坐をかいて慢心し、浮かれ、とんでもない失言をしてしまった。
激しい自己嫌悪と後悔、焦りと寂しさで心が擦り切れてしまいそうになる。
そこに。
「・・・ふぅ・・・。おや? エコニィ、起きていたのですか? ただいま」
ラニッツが帰宅してきた。
気付けば時刻は深夜をまわっていたようだ。
疲労困憊を絵に描いたようなラニッツだったが、すぐにエコニィの只ならぬ気配を察した。
「ど、どうしました!? 何かあったのですか!?」
駆け寄り、少し背を曲げ、小柄な彼女に視線を合わせる。
ラニッツの目が、泣き腫らしたエコニィの目と交差する。
途端にエコニィの顔がくしゃっと歪んだ。
「うええぇぇぇぇッッッ!! ラ゛ニ゛ッヅゥゥ~~~!!」
抱き付き、泣きじゃくるエコニィ。
事態が飲み込めないラニッツは驚いたものの、すぐにその体を優しく抱き締め、落ち着くまで頭を撫でてやった。
「ごめっ・・・なさっ・・・ひっぐ・・・うっ・・・は、離れ・・・ない、でっ・・・ううっ・・・」
なぜ彼女が謝るのかさっぱり分からなかったが、ラニッツはできるだけ優しく、答えた。
「私はどこにも行きませんよ。ずっと貴女と一緒です。よしよし」
どれほどそうしていたのか、ようやくエコニィは落ち着きを取り戻してきた。
鼻をすすりながら途切れ途切れで経緯を話す。
「わ・・・わたっ・・・私が、あんなこと、言ったからっ・・・ラニッツが・・・ほ、他のっ・・・」
「分かりました分かりました。もう大丈夫ですよ。落ち着いて」
ラニッツはもう一度エコニィを優しく抱き締めると、そのままの姿勢でそっと囁いた。
「心配をかけてすみませんでした。でも安心してください。私がここ最近出掛けていたのは、そんな理由では、決して、ありません」
そしてゆっくり抱擁を解くと、エコニィの手を取り、家の外に誘った。
彼女は為されるがままついて行く。
泣いて体温が上がった肌に夜風が涼しく、心地良かった。
しばらく歩いた。
ラニッツは散歩で気分転換でも図ろうとしているのだろうか。
幾分かまともな思考ができるようになったエコニィが考えていると、ポツリポツリとラニッツが話し始めた。
「貴女がそんな不安を抱えていたなんて、本当に申し訳ありません。ただ、どうしても秘密にしておきたかったんですよ」
「・・・何を?」
「・・・以前、貴女が夕食を作ってくれたときのこと、覚えていますか? 交際し始めて1月の・・・」
「うん。覚えてる」
そのとき、エコニィは普段よりも張り切って、少し豪勢な夕食を準備した。
自分でも美味しくできたと思ったし、ラニッツも褒めてくれた。
とても嬉しかった。
「その時、貴女は言ったんです。もうちょっと広い台所だったら、もっとすごいご馳走が作れるってね」
そう言われれば、確かにそんなことを言った記憶がある。
自分で言っておいて何だが、特に深い意味は無い発言だったので忘れていた。
「その時に決心したんです。で、やっと、今日、ようやく完成したんです。さ、到着しましたよ」
ラニッツが笑顔で示すその先には、建物らしき影が見えた。
月明かりに照らされたそれは、近付くと真新しい木材の香りがした。
「あ・・・これ・・・うそ・・・」
エコニィは軽くパニックになっている。
目の前のそれはどう見ても新築の家だった。
そして玄関の前には『ラニッツ&エコニィ』と書かれた立て札が。
「本当は明るくなってからお披露目の予定だったのですが、月明かりの中でというのも味があって良いですよね?」
ここ最近ラニッツが家を空けていたのは、この新居の内装を整えていたからだった。
若い女性が好むようなセンスが自分に無いことも十分に理解していた彼は、村の年頃の娘たちに色々とアドバイスを求め、エコニィが気に入るようなインテリアを目指していたのだ。
「これぐらいはきちんと用意してからでないと、自信を持って言えないですからね」
と、前置きしたラニッツ。
すぅっと息を吸い込むと、意を決したように言った。
「エコニィ、貴女を愛しています。どうか、これからもずっと、私のそばに居て欲しい。結婚してください」
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所によっては雨季でもあるこの時期、しかしタミューサ村においては、雲ひとつない快晴だった。
抜けるような青がどこまでも続く空に、それと同じ色をした真っ青な花弁が舞っている。
ミィニという名のこの花は、キスビットでは特別な意味を持っている。
「エコニィ、おめでとう!」
「ラニッツ!やったなぁ!」
村人たちが口々に祝福の言葉を掛ける。
その先には、まるで空に浮かぶ雲のように真っ白な衣装を身に纏った、ラニッツとエコニィが居た。
青い空、緑の草原、真っ白い服の二人。
そこに、人々から空と同じ色のミィニが投げられ、風に吹かれてゆく。
牧歌的かつ幻想的な光景が広がるこれは、結婚式だった。
衆人は祝福の青で二人の門出を彩るのだ。
村の牧師が二人の前で神に祈り、報告し、祝福を乞う。
ラニッツとエコニィは互いに誓いの言葉を交わした。
ここに、新たな夫婦が誕生した。