目の前にサターニアの男が居る。
酷い暴行を受けたようで、唇は切れ血が滴り、顔も腫れ上がってる。
彼が私を警戒し、そして憎しみの感情を抱いていることはニオイで察知している。
歳の頃は40かそこら。
若干
「あんた、人間を殴っちまったんだって?」
ここは人間至上主義の都市、王都エイ マヨーカにある牢獄だ。
しかも『人外専門の』という但し書きが付く。
この王都において人間以外の種族が人間に危害を加えることは万死に値する。
その逆に、人間が他の種族をどのように扱おうが、特に問題にはならない。
そんな種族差別が当然のようにまかり通っている現状に、多くの民は疑問を持たず境遇を受け入れて生きている。
「・・・フンッ」
サターニアの男は血の混じった唾を吐き捨て、不機嫌そうに鼻を鳴らしただけだった。
人間とは会話もしたくない、そんな嫌悪の感情が露骨に表れている。
「調書にはこう書いてある。港湾内の妖怪往来特赦地区で、すれ違っただけの無抵抗なエイ マヨーカ市民を一方的に殴打、と。これ本当かい?」
怒りの感情が、私に向けられた。
物理的な存在感すら感じるような、強い、濃い、激しい感情だった。
彼の金色に光る瞳が視線で私を射抜き、食いしばる歯からギリギリと音が聴こえた。
「もし本当だとしたら、あんた自殺志願者か何かか?この王都で妖怪のあんたが人間に手を出すことがどういうことか、知らんわけじゃあるまい」
「ふざけるなッッッ!!!」
空気がビリビリと震えるような咆哮で、彼は彼の真実を叫んだ。
「あの人間が財布を落としたんだ!それをあの子が・・・妖怪の子供が親切に拾って、わざわざ追いかけて届けてやったんだ!それなのに奴は・・・ッ」
彼は自分の内側にあるものを全て吐き出すように吠えた。
彼の主張はこうである。
前を歩く人間が財布を落とし、それを妖怪の子供が拾って持ち主に返した。
人間同士であれば美談になる出来事だが、残念ながらそうでは無かった。
その人間は全身全霊の侮蔑と憎しみをぶつけるように、妖怪の子供を蹴り飛ばした。
倒れてうずくまる子供を更に踏みつけながら「お前が触っちまったおかげでもうその財布は使えない」と言ったそうだ。
しかしこの人間が異常なのではない。
これはこの街の日常であった。
重傷を負った子供は現在、特赦区内にある妖怪専用の施設で保護者が付き添い、療養中だそうだ。
「そうか・・・そんなことが。それは・・・申し訳ないことをした・・・」
私は昔、私が守れなかった精霊の子と、今聞いた妖怪の子を自分の中で重ねてしまったのかもしれない。
素直に申し訳ないと思い、残念な気持ちと哀しい気持ちが混ざり合い、自然と謝罪の言葉を漏らしてしまった。
サターニアの男は私の言葉に、ギョッとしたような表情で固まった。
「・・・なぜ、お前が・・・謝る・・・?」
信じられない経験をすると頭が真っ白になるというのは、人間も妖怪も変わらない。
殴られ過ぎて耳か頭がおかしくなってしまったのではないかと疑うような出来事だろう。
人間が、妖怪に対して謝罪の言葉を掛けるなんて。
「その子供、体の傷は治っても、一生消えない傷を心に負ってしまっただろうな。親切心で落とし物を拾ったら半殺しにされるなんて。きっと人間を憎み、妖怪に生まれたことを嘆くような人生を送ることになる。本当に・・・申し訳ない・・・」
私はその妖怪の子供がどのように成長していくのか、それを思うだけで胸が張り裂けそうだった。
これが、こんなことが日常的に起こっているこの国はやはり間違っている。
「・・・最後に話したのが、お前のような変わり者で、良かったよ」
牢の中から、さっきまでとは打って変わった穏やかな声が聞こえた。
サターニアの男は手枷をじゃらりと鳴らしながら石畳の床に座り込んだ。
「最後?」
私はわざと、とぼけた質問を投げかけた。
人間に手を出した妖怪が、ろくな調べもされず極刑になることはここでは常識である。
「そりゃ最後だろ。俺の処刑はいつだ?今日か、明日か」
彼は自分が殺されることを承知の上で人間を殴ったのだろう。
それがどれほどの怒りと、そして覚悟であったか。
「そんな悲しいことを言うなよ。私はあんたに、もっと生きて欲しいと思っている」
私はそう言いながら、牢の鍵を開けた。
彼はまた驚いている。
混乱中の彼に構わず、私は手枷の鍵も外した。
「この収監塔の外までは案内できるが、そこから先は上手く自分で逃げてくれよ」
監視役である私の机にろくな道具は無かったが、何かの役に立つかも知れないと思い、ロープとナイフを袋に詰めて彼に渡した。
しかし彼はそれを受け取らなかった。
それどころか、再び手枷を付けろと言わんばかりに両腕を前に差し出した。
「人間に対してこんな気持ちになったのは初めてだが、俺もお前には長生きして欲しいと、いま思った。俺がここから居なくなれば立場がヤバくなるのはお前だろ」
私は我慢しきれなくなり、ニヤリと口元を歪めてしまった。
私が探していた存在、目的の為に不可欠な協力者、それを、ついに見付けた。
種族という『殻』ではなく、存在の本質である『魂』を見ることができる者だと確信した。
「確かにあんたの言う通りだ。よし、こうしよう。ここから二人で逃げ出す。これから先は一蓮托生だ」
私は早口で手短に説明をした。
私がこの国から種族差別を無くしたいと思っていること。
その為には協力者、特に人間以外の種族の仲間が必要であること。
同志にすべき出会いを求めて、この牢屋番という仕事に就いたこと。
「そしてあんたには、同志になって欲しいと思っている」
急な展開に驚きを隠せなかった彼も、やがて落ち着いた表情で私を見据えた。
そして右手を差し出しながら、名乗った。
「ダクタスだ」
私はその手を取り、固く握り返した。
「私はエウスオーファン。よろしく頼むよ、ダクタスさん」
「おいおい、『さん』は無しにしようや」
「だってどう見たって私より年上だろ?敬意は払うさ」
お互いに軽口を叩いたが、ぴたりと会話を止めた。
コツンコツンという足音が聞こえたからだ。
交代の時間にはまだ早いので、見回りかもしれない。
ダクタスは静かに両手を差し出し、私はその手に鍵をかけないまま手枷を取り付けた。
牢も鍵は開けたまま、扉だけを閉めておいた。
「二人か・・・丁度良い。エウスオーファン、来た奴らを眠らせられるか?」
足音から、近付いてくるのが二名だと察したダクタスが言った。
それにどんな意味があるのか分からない。
しかし油断している相手を昏倒させることくらいなら容易いことだ。
「何か策があるんだな。よし、やってみよう」
私は彼の策に乗ってみることにした。
訪れたのは二人の兵士だった。
新米警備兵に、先輩風を吹かせたい見栄っ張りが、施設内を案内しているといった様子だ。
特に問題はありません、と形式的に答えた私の前を通過する二人。
私はまず先輩兵に背後から組み付き、首に回した腕に力を込めて落とした。
新米兵がそれに気付いて叫び声を上げる前に口を抑え、首筋に肘を叩き込む。
二人はほぼ同時に、どさっと石畳に崩れ落ちた。
「見事なもんじゃないか、エウスオーファン」
手枷を外しながらダクタスが牢から出てきた。
そして倒れている二人を仰向けに転がし、その顔をまじまじと観察した。
次に深く息を吸い込み、フッと短く吐き出した。
「おぉ・・・こ、これは・・・」
私は驚きを隠せなかった。
足元に転がっている二人の兵士が、それぞれダクタスと私の姿に変わったのだ。
ダクタスは殴られた傷まで再現されているし、着ているものまで完璧だ。
「俺の能力は『物の見た目を変化させる』ことだ。ほれ」
そう言うとダクタスは机の上にあった小さな鏡を私に投げた。
私は自分の目を疑った。
いま私に鏡を投げたのはダクタスだったはずだ。
しかし鏡を受け取ったとき、すでに彼は新米兵の姿になっていたのだ。
恐る恐る鏡を覗き込むと、そこには先輩兵の顔が映り込んだ。
「すごい魔法だな」
素直に感心する私に、新米兵の顔をしたダクタスが返す。
「単に見た目が変わるだけでな、そのものの質が変わるわけじゃない。戦闘には向かない
そう言いながら、エウスオーファンになっている兵士を机の前の椅子に座らせたダクタス。
私もそれに倣い、ダクタスの姿になっている兵士を牢に入れ、手枷を付け施錠した。
なるほど、確かに見かけは完璧に再現されているが、しかし声はダクタスのものだった。
もちろん私の声も。
脱出時、他の兵に遭遇しないかと冷や冷やしたが、幸運にも私たちは逃げ出すことに成功した。
その晩は久しぶりに、とても楽しい酒を飲んだ。
「ダクタスさん、そんなに飲んで大丈夫かい?傷に障るんじゃ・・・」
私の心配をよそに、連中は大いに盛り上がった。
妖怪専用の粗末な酒場に、人間である私がこうして入れたのはダクタスのお陰である。
彼は妖怪、特にこの特赦地区において厚い信頼を得ていた。
そんなダクタスが今回の件で捕まってしまい、妖怪たちは意気消沈していたのだ。
そこにひょっこり本人が帰って来たものだから、彼らの喜びはそれは大きなものだった。
「ほらな?聞いたかお前ら。こいつは人間だが、俺らのことを心配してくれる」
酒場の中に居る妖怪たちは、当然ながら人間を快く思っていない。
しかしここに居る私は信頼するダクタスの命の恩人であり、また当のダクタスが完全に信用しているような口ぶりだ。
私はゆっくりと時間をかけて、妖怪たちとの信頼関係を築こうと思った。
この街、この国において恐らく、ただ今この場所だけではあるが、種族間を越えて笑顔を向け合えているのだから。
注がれるのが安酒であっても、それは何事にも代えがたい信頼の証。
欠けたグラスでも不格好な食器でも、飲食を共にするのは信用の証。
私は将来の夢に対する確かな手応えを感じた。
そして夜は更け、そろそろ解散という空気が流れ始めたそんなタイミングだった。
「ダ、ダクタスさん!大変だ!!」
息を切らせて酒場に駆け込んできたのは、少し前に帰ったばかりの男だった。
飲み続けたいのは山々だがあんまり遅いと女房に怒られる、と言いながらしぶしぶ帰った彼がすぐに戻ってきたもんで、酒場に残っていた連中は大笑いした。
「なんだいお前さん、やっぱり飲み足りなくて戻ってきちまったのか」
「違う!そんなんじゃねぇよ!ダクタスさん!
人間至上主義であるこの都市において、唯一妖怪の往来が許されているエリア、妖怪往来特赦地区の中には、満足な機能を果たす施設は少ない。
特に病院の類はほとんど存在しない。
なぜなら、人間にとって妖怪が病気になろうが怪我をしようが、そんなことは知ったことではないからである。
そんな特赦地区内には、妖怪が身体に不調を抱えた場合に休養するための施設が点在していた。
それが癒庭である。
基本的には単なる小屋であり、医者が居るわけでも治療器具が在るわけでも無かったが、温泉付近から採取された鉱石が敷き詰められたその小屋ではほんの少しだけ、自然治癒能力が高まると信じられていた。
持たざるものの知恵、というわけだ。
「どこの癒庭だ!?」
「そ・・・倉庫街の・・・」
「なんだとッ!!?」
ダクタスが血相を変えたのを、私は見逃さなかった。
悪い予感の方が当たる、私は昔からそういう類の人間だ。
「ダクタスさん、まさかその癒庭ってのは、例の妖怪の子供が・・・?」
そうだ、とダクタスは怒りに震えながら、言った。
恐らく自分が逃げ出したことに兵士たちが気付いたのだろう。
その捜索の為、事の発端になったあの子供が居る癒庭に目を付けた可能性が大きい。
「俺のせいだ。行ってくる」
自責の念に駆られ酒場を出ようとするダクタスに、その場の全員が自分も行くと言い出した。
兵隊側が何人居るのかは不明だが、確かに人手は多いに越したことは無いだろう。
だが。
「みんな、待ってくれ」
私の呼び掛けに、たくさんの黒い目がこちらを向いた。
先程までの楽しい雰囲気が一変してしまっている。
やはり私は人間であり、彼らは妖怪なのだ。
その妖怪の仲間が、人間に襲われているという情報が舞い込んだのだから、彼らの反応は至極当然と言える。
しかし私は構わずに質問を投げかけた。
「ダクタスさん以外にこの中で、呪詛の能力を自在に発動できる者は?」
勢いだけで兵隊とやりあうのは得策では無い。
少しでも何か策を用意して臨むべきであると、そう考えたからだ。
しかし私の問い掛けに応えたのは、ダクタスだった。
「俺だけだよ。お前は知らないだろうが・・・」
このエイ マヨーカを現在統治している首長、オイロムがその座に就くとき、あの凶行が実施された。
『オイロム王戴冠式 御前試合』である。
それまでこの街を統治していた先代首長の、異種族に対する厳しい取り締まりは常軌を逸しており、妖怪たちの反発は必至だった。
彼らの中には強力な呪詛を操る者もおり、人間側にしてみれば強大な敵となっていた。
そこでオイロムは全ての準市民(正市民には人間しかなれない)に対し次の様な公布を行った。
『腕に覚えのある者は兵士に、強力な魔法が使えるものは特殊部隊に、その他、役に立ちそうな能力の在る者はすべからく王宮に徴用する。各々の能力を存分に喧伝すべく、王宮の特設闘技場に集結すべし。なお、この御前試合で徴用された者は、正市民となる権利を与えられる。また、今回は無制限に徴用する用意がある。実力ありと見做された者は全員が対象となる』
エイ マヨーカの全妖怪たち、精霊たちが沸いた。
しかしこの御前試合はオイロムの策謀であった。
特殊な能力のある異種族たちはその日、一か所に集められ、そして、葬られたのだ。
「今この街に居る妖怪や精霊はみな『御前試合に名乗りを挙げなかった』連中ばかりだ」
ダクタスは吐き捨てるように言った。
他の者は皆、肩を震わせている。
私がキスビット人の集落で暮らしている間に、そんなことがあったとは。
彼らが人間を憎み恨むのは当然だ。
私が見てきたのはまだ、この世のほんのヒトカケラに過ぎなかった。
「ダクタスさん、私が行こう」
「どういう意味だ?」
怒りと悲しみが混じり合った言いようの無い感情が迸り、血が滾り逆流し身体は憤怒に沸き立ったが、しかし私の頭は妙に冴えていた。
恐らくこれは、私がこの先本当に自分の夢に向かって駆け抜けることができるのか、それを試されているのではないかと思えた。
「人間の不始末は、人間である私に片付けさせて欲しい」
「それを俺が許すと思うのか?お前だけ死なせるわけには・・・」
「干し芋」
「・・・は?」
ダクタスの言葉を私は、まるで突飛な単語で遮った。
「彼が昼に食べたものさ。隣の彼は魚だね。おいおい、君は昼飯を食っていないな?」
私は酒場に居並ぶ面々の顔を見ながら、次々とその日の昼食の内容を言い当てた。
「おい、みんなそれ合ってるのか?」
ダクタスの問い掛けに、皆は顔を見合わせで、小さく頷いた。
「何だかよく分からないが、それが何だってんだ?」
「ダクタスさん、夜になって傷の痛みが増しているんだろう。無理は良くない。そこの君はもう二日酔いか?頭痛がひどそうだ。隣の君は煙草をほどほどにな。肺が悲鳴を上げている。それから君は・・・」
「待てエウスオーファン、どういうことだ?何が言いたい?」
「私には、相手の状態と思考が手に取るように分かる」
私は自身の特殊な嗅覚について説明をした。
多少の嘘を交えながら。
「相手が何を考え、次にどのような行動に出るか、紡ぐ言葉が真実か嘘か。私には戦闘におけるフェイントも、話術によるフェイクも通用しない」
精神状態や感情は、心だけに起きている出来事ではない。
必ず肉体にも相応の反応が起こっているのだ。
それは筋肉の収縮だったり、脳内の分泌物質だったりと多岐に渡るのだが、私にはそれらがニオイで分かる、という説明をした。
本当にこんなことが正確に判別できれば良いのにと、希望を込めた内容になってしまったが、どうやらダクタス含め皆が信じてくれた。
実のところは、ぼんやりとしたニオイの情報を頼りに、それを経験と観察で埋めるのがやっとである。
「む・・・無敵じゃないか・・・」
「そうだ。だから、皆で行って無駄な犠牲など出さずとも、私が一人で行き、癒庭に居る怪我人や病人を救い出してこよう。必ず戻る。だから、皆はここで待っていてくれないか。この通りだ」
こうして私はたった一人で倉庫街の癒庭へ向かい、大勢の兵士たちを相手取ることになった。
海から吹く風に混じる、潮の香り以外のニオイに集中しながら道を急ぐ。
なるほど、兵士は20人か。
癒庭の中には2人、妖怪の子供とその母親だな。
兵士の装備に火薬類の所持は無し。
恐らくは全員が帯剣しているだけだろう。
他の装備は油のニオイからして、照明用のランタンを持っている程度か。
「なんとかなりそうだ」
私は兵士たちの人数が想定より少なく、また装備も貧弱であるという幸運を喜んだ。
この様子なら、気取られることなく接近して一人ずつ仕留めていく作戦が使えそうだ。
そう思った矢先、兵士の怒鳴り声が聞こえてきた。
「サターニアのジジィ!居るんだろ!?出て来いよぉぉ!!早くしねーとこのガキの首、ちょん切っちまうゾォォ!!?」
妖怪の子供は癒庭の屋根の軒先からロープで吊り下げられていた。
実際のところ、兵士たちにとってここでダクタスが出て来ようが来まいが、あまり関係無いのかもしれない。
単に、脱獄犯を出してしまった事に対する上からの叱責を、弱い者いじめで発散しているに過ぎないような気がする。
しかしそれなら時間的な余裕はあまり無いと見た方が良い。
彼らの気分次第で、あの子はすぐにでも殺されてしまうかもしれなかった。
「私が!私が代わりますから!その子は!その子は大怪我をしているんです!!」
大声を上げる兵士にすがりつく女性の声。
あの子供の母親だろうか。
「きったねぇ手で触るんじゃねーよメスブタがッッ!!望み通り死ね!」
蹴り倒された母親に向かって振り上げられた剣が鈍く光る。
最早、一刻の猶予も無かった。
「なんだお前はッ・・・ぎゃあああー!!!」
私は松明で照らされている妖怪の子に向かって真っすぐ道を歩いた。
その姿を見咎めた兵士の一人に声を掛けられたが、言葉ではなくダガーで返事をしておいた。
大腿部を深く切り付けたので、しばらくは歩けないだろう。
妖怪親子の前にいる兵士は3人。
いま倒した兵士以外に、こいつらを倒してもあと16人は居るということか。
正面切っての戦闘で多対一というのは正直、劣勢必至だ。
不意打ちが通用するのは最初の1人目だけである。
「舐めた真似しやがって・・・ジジィ!!!」
剣を振りかざした兵士が突進してきた。
このくらい直線的で分かりやすい攻撃を全員がしてくれれば助かるなと思いながら、私はその兵士が振り下ろした剣を見切り、ダガーでその手を撫でた。
手首の腱を傷つければもう剣で戦うことはできない。
それにしても私に対してジジィは無いと思う。
そりゃ少しばかり苦労が多かったせいで少々老けた顔をしている自覚はあるが・・・。
と、私は癒庭の窓に目をやった。
路地は松明で煌々と明るく、逆に屋内は暗いため窓には私の姿が映っていた。
いや、私の姿ではあるが、見た目はダクタスのものだった。
「やってくれたな、ダクタスさん・・・」
きっと彼は私を気遣ってくれたのだろう。
兵士たちに顔を見られれば私の立場が危うくなると。
しかしそれは違う。
私は私が人間であるからこそ、一人でここに来たのだ。
守るべきものは守り、助けるべきものは助けるが、しかしそれが新たな諍いの火種になってはいけないのだ。
今この姿のまま私が兵士たちと戦うということはつまり、人間対妖怪の争いが起こったということになる。
「ああ・・・無駄に殺さねばならなくなってしまった。後でダクタスさんにはきちんと説明しておこう・・・」
この場に現れたのが人間であるということを兵士たちに後で証言させたかったのだが、それも出来なくなってしまった。
妖怪が人間の兵士相手に暴れたなどという報告が軍に上がるのは非常にまずい。
私はくるりと振り返ると、手首を抑えてうずくまっている兵士の延髄を掻き斬った。
さらにそのまま、脚を引き摺って距離を取ろうとしている兵士の眉間にダガーを突き立てる。
抜きざまに低く屈むと、先程まで私の頭が在った空間を剣が横薙ぎに通過した。
背後には残り2人の兵士が駆け寄ってきていた。
「妖怪風情が!よくも!!!」
感情的な攻撃ほど読みやすいものは無い。
力任せに振り抜いた剣の真下から現れた私に驚愕の瞳を向けつつ、胸から血飛沫を上げて倒れる一人目。
後ろ向きの相手に奇襲の初撃を避けられたことがよほど想定外だったのか、二人目も動きが止まっている。
ああ、そうか、こいつらはまだ新兵ということか。
経験の浅さが戦闘で命取りになるのはこういう場面だ。
予想外の出来事で思考が停止しても、体は動かさなければならない。
それができなければ
ゴフッと喀血しながら足元に崩れ落ちる兵士の胸倉を掴み、私は肩に担ぎ上げた。
「剣だけだと思ったが、弓使いも居たとはね」
ドスッドスッという鈍い振動を兵士の死体越しに感じながら、私は建物の壁を背にする。
2・・・いや、3人が屋根の上から弓矢で私を狙っているのを嗅いだ。
狙いを定めるような作業で精神の一点集中を行うと、通常よりも濃い汗が分泌される。
隠れて待ち構えているような状況でも同じニオイがするものだ。
もちろん、戦士としての経験を積み熟練度が増せばそうとも言えなくなる。
冷静に淡々と戦える達人がこの場に居なかったことは私にとって幸運だった。
顔面にダガーの柄を生やした3つの死体が屋根から落ちてくるのを確認しながら、私は妖怪の親子に駆け寄った。
近付いてみて分かったが、2人はアスラーンであるようだ。
母親が必至に子供の縄を解こうとしている。
確か先程したたかに兵士から蹴られていたはずだ。
硬い軍靴で力任せに蹴り上げられて無傷であることは考えにくい。
「あんた、その子を抱えて走れるか?」
私は素早く縄を切り、子供を受けとめると母親に向き直った。
・・・。
正直、まさか自分の内にこんな感情があることをまったく予想していなかった。
完全に想定外。
「あ、あの・・・ダクタスさん?」
母親は動揺した表情でこちらを見る。
そうだった、今の私の外見はこの界隈では有名なサターニアなのだ。
「事情は後で話す。逃げられるか?」
「・・・はい!なんとか!」
混乱してもおかしくないこの状況で、判断の早さと決断力も申し分無い。
素晴らしい女性である。
そして何より。
「美しい・・・それに、良い香りだ」
私は無意識のうちに言葉として発してしまった自分の声で我に返り、密かに赤面した。
ダクタスの変化の魔法は、対象の顔が赤くなった場合に他人からはどう見えるのだろうか。
しかしそれについて深く考える暇は、私には無かった。
物音を聞き付けて路地を駆けてくる軍靴の反響音を耳にした。
5人の兵士が現れ、そして仲間の死体を目撃したようだ。
今までよりも苦労する戦いになるだろう。
戦闘における優劣は、意外と単純に『集中力』で左右される。
さっきまでに片付けた7人の兵士はその全員に『驚愕』や『油断』などの隙があった。
しかし現状を視認し、私を敵であると認識して集中するこの5人は、非常に厄介な相手だ。
もちろん、正面切って戦うのなら、という但し書きが付く。
「貴様っ!妖怪の分際で、こんなことが許されると思っているのか!」
「思ってないさ。だから、逃げるッ」
そう言うや否や、私は兵士たちにくるりと背を向けて建物の間の細い路地へと駆け込んだ。
道幅が狭ければ長剣を使う兵士よりも短剣を扱う私の方が有利だという点も、ある。
対面する兵士が1人になり私の得意な1対1の戦闘に持ち込めるという点も、ある。
しかし私が狙ったのはそのどちらでも無かった。
「どうにもこの路地は油のニオイが強くてね」
走り抜けざま、私は壁面に力強く発火棒を擦り付けた。
火山付近で採れる岩石を粉状にして油を染み込ませた木の棒の先に塗っておくと、摩擦熱程度の温度で発火するのだ。
私は火のついた棒きれを足元に転がした。
その途端、背後で火柱が上がった。
兵士の叫び声が聞こえる。
「自分たちが撒いた種だからな・・・いや、油か」
兵士たちがこの付近の路地の方々に油を流していることは嗅ぎ取っていた。
当初ランタンを所持していると思ったが、兵士たちが手にしている灯りが松明しか無かったのが気にはなっていたのだ。
恐らくは本物のダクタスを、文字通り炙り出す為だろう。
仮に燃え広がったとしても、妖怪しか住まないこの地区が灰になったところで人間たちの生活には何の影響も無い。
「だが、残念ながらこのあたりは石造りの建物ばかりだ。勉強が足りんな」
5人全ての兵士が炎に包まれたことを確認する。
残りは8人。
私は立ち止り、周囲のニオイに集中した。
できれば1人ずつ不意打ちしながら回りたかったが、さすがに火を付けたのは演出が派手過ぎた。
すでに残りの8人がこちらに向かって駆けてきているようだ。
「さて、どうするか・・・」
手持ちの武器はダガー4本のみ。
あとはロープが1本と、発火棒が2本。
ダガーの投擲は3本までか・・・囲まれたら厳しい状況だ。
仕方ない、
「居たぞ!こっちだぁー!!」
路地で燃え盛る炎に照らされた私の姿を発見した兵士が叫び、残りの7人も集結してきた。
私は両手を挙げた。
そしてこれ以上ないほど満面の笑みを浮かべて、言った。
「降参だ。許してくれ人間よ」
ほんの一瞬、時が止まる。
私が何を言ったのか、その言葉が兵士たちの脳に伝わり意味を理解し、何と言い返すか判断するまでの刹那。
最初に息を吸った奴、次に吸った奴。
恐らく「許すわけない」だとか「馬鹿なことを」だとか、そんなことを怒鳴ろうとしたのだと思う。
しかし、その声が発せられることは無く、先程まで挙げていた私の両手が振り下ろされていることにも気付かず、二人の兵士がドサリと倒れた。
残り6人。
ダガーは2本。
仲間が倒れ、額に短剣の柄らしきものが生えていることに気が付き、雄叫びを上げながら剣を振りかざした兵士が1人。
まずい、こいつがこの隊の隊長か。
今までの雑魚とは反応も動きもまるで違う。
そして指示命令も。
「お前ら!何を呆けている!囲め!取り囲むんだ!」
隊長の指示により、私を取り囲んだ兵士たち。
完全に囲まれる前に準備ができたのは僥倖だろう。
私はダガーの柄にロープを短く切って巻き付けていた。
「さらば人間ども。ははは、道連れだ!」
発火棒を石畳の地面に擦り付け点火すると、そのままダガーに結び付けたロープに火を付け、そして兵士の足元に放り投げた。
「爆弾だ!伏せろぉぉぉ!!!!」
隊長の怒号が響き渡り、兵士たちが地面に伏せる。
一人だけ反応が遅い奴が居た。
恐らく新兵なのだろう、可哀相に。
私は彼の真横をすり抜けるように駆けた。
もちろん最後のダガーで心臓を一突きすることも忘れていない。
柄に小さな炎を灯しただけの単なる短剣がカランと音を立てて地面に落ちたとき、私は包囲を抜けていた。
目指す先は、屋根から弓兵が落ちた路地だ。
彼ら3人が私のダガーを1本ずつ、その額で預かってくれているはずだから。
既に路地の炎は油を燃やし尽くし、兵士たちが持っていた松明も消えている。
暗がりの中、私はダガーの回収を急いだ。
「くっ・・・コケにしやがって!クソがあぁぁぁー!!!」
背後から物凄い怒鳴り声が聞こえた。
隊長としては部下の前で飛んでもない恥をかかされたことになる。
なにせ「爆弾だ」と叫んでしまったのだ。
部下4人を引き連れて、隊長は私の後を追った。
「屋根に配していた弓兵も、やられているようです・・・」
部下の一人が隊長に報告する。
その報告内容は正しいが、しかし確認が疎か過ぎた。
松明を持って来て身内の顔ぐらい、確かめておくべきだったな。
弓を持って倒れているのが
音も無く半身を起こした私はギリギリと弦を引き絞り、松明を持つ兵士のうなじを狙った。
たかが妖怪と侮って軽装備で来たのが災いしたな。
本装備だったなら少なくとも、こうして射られることは無かったのだ。
ヒュッという風切り音。
倒れる兵士に私は全速力で駆け寄り、落とした松明を拾い上げた。
「貴様ァァァァ!!!」
隊長が吠えるのと同時に、私は手にした松明を力いっぱい放り投げた。
二階建の建物の屋根へと消えた松明。
最後の灯りを失った現場には暗闇が流れ込み、若干の月明かりだけがそれを阻んでいた。
隊長と部下3人。
回収したダガーが3本。
部下は扇形に散開し、前面三方から間合いを詰めてくる。
中央の兵士の真後ろから隊長が檄を飛ばす。
「お前ら!一斉に斬りかかれぇぇ!!!」
そう来ると、踏んでいた。
これが3人それぞれが各々の意思で向かって来られると非常に厄介だった。
しかし、こと号令で動く兵士ほど簡単な相手は居ない。
同じタイミングで同じ行動に出ることが分かるのだから、その対処も楽になる。
私は同時に振り下ろされる三方向からの斬撃を後方に飛び退いて回避することにした。
そしてその一瞬後、間合いを急激に詰めて中央の兵士を狙う算段だ。
しかし。
私はこの隊長の人格を侮っていたようだ。
中央に居た兵士の胸から切っ先が飛び出し、私に向かって来たのだ。
そう、背後に居た隊長は自分の部下ごと私を串刺しにするつもりで突きを繰り出してきたのである。
「ッ!!!」
まともに喰らってしまった。
男と抱き合う趣味は無いが、兵士と一緒に串刺しにされる趣味はもっと無い。
腹部に激痛を感じながら、私は両側の兵士にダガーを投擲する。
兵士が崩れ落ちる間に、私は自分の腹に深く刺さった剣から逃れるべく、後退した。
不測の事態が起こったときは機先を制した者が生き残る。
これでようやく隊長と1対1の戦いに持ち込めた。
だがしかし、この腹の傷はずいぶんと深そうだ。
「仲間だろ?ひどい奴だな」
「黙れ妖怪ィ!!貴様のせいだろうがぁぁ!!!」
まだ会話の余地は有りそうだ。
どうにか隙を作り、最後のダガーを投げたい。
激しい痛みで飛びそうになる意識を繋げるためにも、とにかく何か会話を。
「とんだ大失態だな隊長。あんたの処分、どうなるかね」
「それを気に病むのは貴様を擂り潰してからだ!」
会話で隙を作るのは無理なようだ。
もう話すことは無いと言わんばかりに、隊長は突進して来た。
自分で刺し殺した部下から剣を取り、二刀流で打ちかかってくる。
引き換えこちらは短剣1本に、この傷。
最早雌雄は決した。
「死ねぇぇぇ-!!!」
自分に向かって剣を振り下ろす隊長に、私は構えを解いて言った。
「もうダメかと思ったが、とても良い香りがするんだよ、隊長」
二本の剣は私に当たる前に失速し、地面に落ちた。
そして隊長が足元に倒れる。
その陰から現れたのは、あのアスラーンの母親だった。
手には剣が握られている。
「やぁ、まさか戻ってきてくれるとは。お陰で、助かった・・・」
私は
何日寝ていたのか、ここがどこの癒庭なのかも分からなかった。
「いっ・・・ててて・・・」
腹部の痛みの他に、私は別の感覚を捉えていた。
あの、とても良い香りである。
「ダクタスさん!エウスオーファンさんが目を覚まされました!」
「ああ、貴女か。無事で良かった。お子さんは?」
「ああ、あの子ですか。貴方のお陰でどうにか。本当にありがとうございます」
「それでもまだ療養中でしょう?お母さんがついていてあげた方が良い。私は大丈夫だから」
「あら、まぁ。私が子持ちに見えますか?」
「え?えーっと・・・」
バタンッと扉が勢い良く開いた。
そこには立派な巻角を持ったサターニアの男が立っていた。
「よう、くたばり損ない。大口叩いて行ったわりにゃ、散々な有り様だな」
「いやいや、今の私としちゃ大健闘さ。しかし私の見掛けをアンタにしたのはマズかったよ、ダクタスさん」
私は兵士の報復の目を、妖怪よりもむしろ人間である自分が受けた方が良いと言うことを説明した。
人間たちはダクタスを一人の妖怪としてではなく、妖怪という全存在の代表として捉えるだろう。
そうすれば余計な火の粉が無関係の妖怪に飛び火する可能性がある。
「そうだったのか。確かにそうだ・・・済まない」
神妙な顔で謝罪するダクタスを見て、アスラーンの女性が驚きの声を上げた。
「まぁ!あのダクタスさんが素直に謝るだなんて!」
とても可笑しそうにコロコロと笑う彼女の顔を見るうち、何か込み上げてくる思いが勝手に言葉になって紡がれた。
「まずは町だ。いや、そこまで大きな規模は無理かもしれない。村、集落でも良い。種族差別から逃れて暮らせる場所を作ろう。それが、私の夢への第一歩なのだと思う」
言いたい事のひとかけらも言い表せていない稚拙な言葉だったが、しかし本心だった。
恐らくこの国は病気なのだ。
その病に冒された民たちは種族差別を当然のこととして受け入れる。
差別する側も、される側も。
だが現に今こうして、魂を通わせ合える異種族同士が存在している。
こういう輪を広げていきたい。
そしてそれがやがて、国全体に広がれば良いと思う。
「なんだ、まだ熱に浮かされてるのか?コイツをどう思う、マーウィン」
「立派なお方だと思います」
「・・・お前も、お熱かよ」
数日後、私はダクタスと共に王都を抜け出した。
どこかに私たちの聖域を確保し、そして彼女たちを迎えに来よう。
「そう言えばエウスオーファンよ、お前マーウィンに子持ちだって言ったらしいな」
「あの状況なら誰でもそう思うだろ?」
「ちょっぴり傷付いてたぞ、マーウィン」
「そ、そんな!私はただ・・・」
「はっはっは!冗談だ冗談!ラニッツはマーウィンの親友の子でな」
「ラニッツ・・・あの子供か」
「そうだったのか・・・」
「だ・か・ら、マーウィンはまだ未婚ってワケだ。良かったな?」
「なっ、何のことだ!」
私の足は自然と、北に向かっていた。
そしてエイ マヨーカを出て数ヶ月後、とても懐かしい場所に辿り着いた。
運命としか言い様の無い偶然だと思う。
まさか、この場所にもう一度来ることができるなんて。
幼い私が王都の憲兵に追われ、そして優しい精霊に命を救われた場所。
優しい精霊が、命を懸けて私を守ってくれた場所。
その精霊の名は、タミューサ。
「ダクタスさん、私は、ここに村を作ろうと思う」